糸季の足元
機楽〜はたらく #2 < 後編 >
機楽〜はたらく 編み機とハタラク職人のモノ語り 連載企画 第二回目、 奈良県・広陵町にある靴下工場「ヤマヤ株式会社」 代表取締役社長 野村佳照 、取締役専務 野村泰嵩 親子にインタビュー < 後編 > ー1994年、「ORGANIC GARDEN」「Hoffman」2つのファクトリーブランドを立ち上げた経緯、当時の様子など教えてください。 社長 戦後の高度経済成長に陰りが見え出し、1971年には1ドル360円という固定相場制が終了すると、韓国や中国から輸入品が増えるようになりました。このままでは、製造業に未来は無い、という危機感から、自社製品を作り自らの手で販売する自立工場を目指しました。ハートデザイン戸田氏の協力を得て、アパレルに精通したプランニング会社を加え、1994年 インポートテイストの匂いを感じる、おしゃれなソックスブランドとして「Hoffmann」がデビューしました。現在のようにEC(電子商取引)といった取引手段もなく、ゼロからの新規取引先の開拓は容易なことではありませんでした。 ホフマンのスタートと同じ時期に、県内で繊維製造業を営む企業で、ヤマヤと同様に製造業の未来に危機感をもつ繊維業の有志が集まり、協同組合エヌエスを設立しました。商品企画を契約していたプランニング会社から環境にやさしいオーガニックコットンという素材の提案があり、環境問題が社会問題化しつつある中、その素材でそれぞれ得意なアイテムを商品開発することになりました。 ー2020年には東京江東区清澄に糸季姉妹店、ファクトリーブランド“yahae〈ヤハエ〉“の立ち上げの経緯を教えて下さい。 専務 時代が急速に変化する中で、遠い未来にも通用する究極の定番を追求したいと考えるようになりました。そこでオーガニックコットンを中心としたサスティナビリティを意識した素材使いを軸に、思いを入れて選びたい日や、特別な人へのギフトとして選ばれるような靴下を作ることにしました。私たちの歴史と未来の交差点にあるプロダクトの集合体がyahaeで、それを販売する場所がyahae kiyosumiです。 ーブランド設立から四半世紀を過ぎ、一番苦労したエピソードをお聞かせください。 社長 Hoffmannについては、一弱小工場が立ち上げた無名のソックスブランドとして、相手にはされません。当時、工場がダイレクトに小売店に販売することはタブー視されていた時代でした。また、靴下自体、アパレルアイテムというより雑貨としての扱いで、洋品店での関心も低いということもありました。 それでも、営業を続けながら、取引店舗はできてはきましたが、なかなか請求通りの支払いをしてくれません。ようやく支払いしてくれても半分だけという有様です。これではいくら扱い店舗が増えても、こちらが企業として成り立ちません。完全買取り、完全回収を取引条件に、一から出直しました。 協同組合エヌエスの「ORGANIC GARDEN」については、当時、まだ、エコという言葉が一般には理解されていない時代で、百貨店のイベントでも、「エコ」という言葉は使えずに、「自然」とか、「健康」という言葉をキーワードとして使いました。新規の営業で、オーガニックコットンの特性を力説するあまり、そのお店の商品をけなすのか、と言わんばかりに店主の反感を買ったこともありました。 ー最後に、お二人にたずねます。あなたにとって「靴下」とは? 社長 靴下を作ることは、私に与えられた使命のように感じています。ものがあふれている現在社会の中で、無闇な競争をしてまで生き残るという気持ちは、毛頭ありません。むしろ、そういう状況になれば、潔く業界から身を引くべきと考えます。気に入っていただける、喜んでいただけるいいものを世に送り出す。多くの人にこの製品を届けたい、その思いで工場経営を行っています。この考えは、ヤマヤのものづくり、Yamaya Quality(ヤマヤ品質)のベースになるものです。 専務 靴下は、簡単にその日のスタイリングの方向性を決めることができるので、とても便利でかつ非常に重要なアイテムだと思います。例えば茶色のセットアップのスーツを着るとします。その時にネイビーのビジネスソックスを履くのと、赤いソックスを合わせるのとでは、全く印象が違います。“I...
機楽〜はたらく #2 < 後編 >
機楽〜はたらく 編み機とハタラク職人のモノ語り 連載企画 第二回目、 奈良県・広陵町にある靴下工場「ヤマヤ株式会社」 代表取締役社長 野村佳照 、取締役専務 野村泰嵩 親子にインタビュー < 後編 > ー1994年、「ORGANIC GARDEN」「Hoffman」2つのファクトリーブランドを立ち上げた経緯、当時の様子など教えてください。 社長 戦後の高度経済成長に陰りが見え出し、1971年には1ドル360円という固定相場制が終了すると、韓国や中国から輸入品が増えるようになりました。このままでは、製造業に未来は無い、という危機感から、自社製品を作り自らの手で販売する自立工場を目指しました。ハートデザイン戸田氏の協力を得て、アパレルに精通したプランニング会社を加え、1994年 インポートテイストの匂いを感じる、おしゃれなソックスブランドとして「Hoffmann」がデビューしました。現在のようにEC(電子商取引)といった取引手段もなく、ゼロからの新規取引先の開拓は容易なことではありませんでした。 ホフマンのスタートと同じ時期に、県内で繊維製造業を営む企業で、ヤマヤと同様に製造業の未来に危機感をもつ繊維業の有志が集まり、協同組合エヌエスを設立しました。商品企画を契約していたプランニング会社から環境にやさしいオーガニックコットンという素材の提案があり、環境問題が社会問題化しつつある中、その素材でそれぞれ得意なアイテムを商品開発することになりました。 ー2020年には東京江東区清澄に糸季姉妹店、ファクトリーブランド“yahae〈ヤハエ〉“の立ち上げの経緯を教えて下さい。 専務 時代が急速に変化する中で、遠い未来にも通用する究極の定番を追求したいと考えるようになりました。そこでオーガニックコットンを中心としたサスティナビリティを意識した素材使いを軸に、思いを入れて選びたい日や、特別な人へのギフトとして選ばれるような靴下を作ることにしました。私たちの歴史と未来の交差点にあるプロダクトの集合体がyahaeで、それを販売する場所がyahae kiyosumiです。 ーブランド設立から四半世紀を過ぎ、一番苦労したエピソードをお聞かせください。 社長 Hoffmannについては、一弱小工場が立ち上げた無名のソックスブランドとして、相手にはされません。当時、工場がダイレクトに小売店に販売することはタブー視されていた時代でした。また、靴下自体、アパレルアイテムというより雑貨としての扱いで、洋品店での関心も低いということもありました。 それでも、営業を続けながら、取引店舗はできてはきましたが、なかなか請求通りの支払いをしてくれません。ようやく支払いしてくれても半分だけという有様です。これではいくら扱い店舗が増えても、こちらが企業として成り立ちません。完全買取り、完全回収を取引条件に、一から出直しました。 協同組合エヌエスの「ORGANIC GARDEN」については、当時、まだ、エコという言葉が一般には理解されていない時代で、百貨店のイベントでも、「エコ」という言葉は使えずに、「自然」とか、「健康」という言葉をキーワードとして使いました。新規の営業で、オーガニックコットンの特性を力説するあまり、そのお店の商品をけなすのか、と言わんばかりに店主の反感を買ったこともありました。 ー最後に、お二人にたずねます。あなたにとって「靴下」とは? 社長 靴下を作ることは、私に与えられた使命のように感じています。ものがあふれている現在社会の中で、無闇な競争をしてまで生き残るという気持ちは、毛頭ありません。むしろ、そういう状況になれば、潔く業界から身を引くべきと考えます。気に入っていただける、喜んでいただけるいいものを世に送り出す。多くの人にこの製品を届けたい、その思いで工場経営を行っています。この考えは、ヤマヤのものづくり、Yamaya Quality(ヤマヤ品質)のベースになるものです。 専務 靴下は、簡単にその日のスタイリングの方向性を決めることができるので、とても便利でかつ非常に重要なアイテムだと思います。例えば茶色のセットアップのスーツを着るとします。その時にネイビーのビジネスソックスを履くのと、赤いソックスを合わせるのとでは、全く印象が違います。“I...
機楽〜はたらく #1 < 前編 >
機楽〜はたらく 編み機とハタラク職人のモノ語り はじまります。 連載企画 第一回目、 奈良県・広陵町にある靴下工場「ヤマヤ株式会社」 代表取締役社長 野村佳照 、取締役専務 野村泰嵩 親子にインタビュー < 前編 > 今回は、現在の社屋から徒歩数分の距離にある、社長自邸敷地内の旧工場を訪問しました。 ーヤマヤは昨年100周年を迎えました。その歴史の中で代々受け継がれてきていることはありますか? 社長 祖母より「代々、我が事よりひと様のことを大切に思う家筋」という話を聞かされてきました。昭和58年、個人経営から法人に改組する際、先祖のその精神を引き継ぐ意味で、江戸時代文政期に木綿業を創業した「疋相村弥兵衛」以来の屋号であった「山や」の名称を用い、山屋株式会社としました。平成4年、CI(corporate identity)導入を機に、社名をヤマヤ株式会社に改称しました。 ー家業について子どものころ、どう感じていましたか? 専務 脇役的な立ち位置ではありながら、さりげなく個性も表現できる靴下というアイテムに、とても魅力を感じていました。幼い頃から服や鞄などのファッションにずっと興味はあったので、その一部である靴下の生産に家業を継ぐ形で携わることは、すごく自然にイメージできました。今思うと、大学や就職先などの進路の選択の際には、将来的な靴下工場での勤務を視野に入れて、無意識の内に少しでも役立つような道を選んできたと思います。 ー旧工場には 「安定した高品質」の文字が掲げられていますが、そのために配慮や工夫されていることは? 社長 品質をとは何かと問うと、人によりまちまちの答えが返ってくると思いますが、一般的には、キズやヨゴレがなく、生地の調整がとれていて、丈や横伸びに支障がなく、外見も整っている靴下、と言えます。ところが、そのような品物ができあがっても、それと同じものを本生産で再現しなければ意味がありません。同じように作ればいいだけのこと、と思われるでしょうが、それが難しいのです。気温や湿度により糸の状態が変化します。コーンに巻かれた糸の形状も変化します。糸の通り道に綿ぼこりが溜まります。常に、編み上がりの生地をチェックする必要があるのです。いい品物を確かな品質で安定して作る、という意味で、「安定した高品質」という言葉を標語として、旧工場に掲げました。その考えは、ヤマヤのものづくり基本的な考えとして今も変わりありません。 ーこの旧工場での思い出などがあれば教えて下さい。 専務 よく兄弟で卓球をしたことを覚えています。また広い空間があるのに、全く生かされていない現状について、よく何かできないかと考えを巡らせたことも記憶しています。ここをリノベーションして住まいにすることも考えましたが、結果的にはなるべく多くの方が訪れることができる空間にしたいと考え、店舗・ギャラリーとしての展開を決めました。 あとがき 野村親子はインタビューでもあったように家業であるものづくりや考え方を共にし、これまで歩んで参りました。 このように改めて話を聞く機会が少ない中、この連載はわたしたち従業員にもヤマヤについて学ぶきっかけとなり、 多くの方に知っていただけることを嬉しく思っています。 旧工場の新展開については、また別途お知らせしますね。 暑い中、長年の蓄積された編み機の埃を社長自らが懸命に拭っている様子にもご注目ください。 次回、後編では更に深くたずねていきます。...
機楽〜はたらく #1 < 前編 >
機楽〜はたらく 編み機とハタラク職人のモノ語り はじまります。 連載企画 第一回目、 奈良県・広陵町にある靴下工場「ヤマヤ株式会社」 代表取締役社長 野村佳照 、取締役専務 野村泰嵩 親子にインタビュー < 前編 > 今回は、現在の社屋から徒歩数分の距離にある、社長自邸敷地内の旧工場を訪問しました。 ーヤマヤは昨年100周年を迎えました。その歴史の中で代々受け継がれてきていることはありますか? 社長 祖母より「代々、我が事よりひと様のことを大切に思う家筋」という話を聞かされてきました。昭和58年、個人経営から法人に改組する際、先祖のその精神を引き継ぐ意味で、江戸時代文政期に木綿業を創業した「疋相村弥兵衛」以来の屋号であった「山や」の名称を用い、山屋株式会社としました。平成4年、CI(corporate identity)導入を機に、社名をヤマヤ株式会社に改称しました。 ー家業について子どものころ、どう感じていましたか? 専務 脇役的な立ち位置ではありながら、さりげなく個性も表現できる靴下というアイテムに、とても魅力を感じていました。幼い頃から服や鞄などのファッションにずっと興味はあったので、その一部である靴下の生産に家業を継ぐ形で携わることは、すごく自然にイメージできました。今思うと、大学や就職先などの進路の選択の際には、将来的な靴下工場での勤務を視野に入れて、無意識の内に少しでも役立つような道を選んできたと思います。 ー旧工場には 「安定した高品質」の文字が掲げられていますが、そのために配慮や工夫されていることは? 社長 品質をとは何かと問うと、人によりまちまちの答えが返ってくると思いますが、一般的には、キズやヨゴレがなく、生地の調整がとれていて、丈や横伸びに支障がなく、外見も整っている靴下、と言えます。ところが、そのような品物ができあがっても、それと同じものを本生産で再現しなければ意味がありません。同じように作ればいいだけのこと、と思われるでしょうが、それが難しいのです。気温や湿度により糸の状態が変化します。コーンに巻かれた糸の形状も変化します。糸の通り道に綿ぼこりが溜まります。常に、編み上がりの生地をチェックする必要があるのです。いい品物を確かな品質で安定して作る、という意味で、「安定した高品質」という言葉を標語として、旧工場に掲げました。その考えは、ヤマヤのものづくり基本的な考えとして今も変わりありません。 ーこの旧工場での思い出などがあれば教えて下さい。 専務 よく兄弟で卓球をしたことを覚えています。また広い空間があるのに、全く生かされていない現状について、よく何かできないかと考えを巡らせたことも記憶しています。ここをリノベーションして住まいにすることも考えましたが、結果的にはなるべく多くの方が訪れることができる空間にしたいと考え、店舗・ギャラリーとしての展開を決めました。 あとがき 野村親子はインタビューでもあったように家業であるものづくりや考え方を共にし、これまで歩んで参りました。 このように改めて話を聞く機会が少ない中、この連載はわたしたち従業員にもヤマヤについて学ぶきっかけとなり、 多くの方に知っていただけることを嬉しく思っています。 旧工場の新展開については、また別途お知らせしますね。 暑い中、長年の蓄積された編み機の埃を社長自らが懸命に拭っている様子にもご注目ください。 次回、後編では更に深くたずねていきます。...